技術流出の非対称構造──POSCO事件から中国特許無効まで
2025.11.07UP!
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日本製鉄が誇った「鉄の芸術品」、方向性電磁鋼板の技術はなぜ流出したのでしょうか。本記事では、POSCO事件から中国への二次流出、そしてトヨタを巻き込んだ訴訟に至るまで、一連の技術流出事件を時系列で解説します。単なる過去の事件ではなく、日本の製造業が抱える構造的な課題と、今すぐ経営が取り組むべき具体的な教訓(防衛策)が分かります。
1. なぜ日本製鉄は技術的優位を持っていたのか?
「方向性電磁鋼板」という世界初の独自技術によります。これは変圧器などのエネルギー損失を劇的に削減できる「鉄の芸術品」と呼ばれ、同社は世界シェアを大幅に獲得していました。
1960年代、日本の鉄鋼業は世界の技術を凌駕していました。新日本製鐵(現・日本製鉄)は1961年に電磁鋼板技術の開発に着手します。そして1968年には世界で初めて方向性電磁鋼板の量産化に成功しました。鉄の結晶粒を一定方向に整列させる製造技術により、変圧器や発電機のエネルギー損失を劇的に削減したのです。
技術の核心は、結晶制御、熱処理、圧延条件など膨大なノウハウ群です。特許化すれば内容が公開されるため、新日鐵は「特許にせず秘密にする」方針を採用しました。営業秘密として社内で厳格に管理する戦略を取っていました。
2. なぜ技術流出は起きたのか?
終身雇用の崩壊と、技術者への不十分な報酬制度が原因も一因と考えられます。1990年代、日本の熟練技術者が海外企業へ移籍する動きが加速しました。特に韓国では、国家主導の政策のもと退職日本人技術者への高額報酬スカウトが常態化します。
POSCOは1990年代後半、新日鐵の元技術者を招聘し、方向性電磁鋼板の製造ノウハウを獲得したと見られます。
背景には、日本企業の構造的な問題があります。
成果を正当に報いる報酬制度が欠け、研究者のロイヤリティが低下しました。
2020年度の調査でも、営業秘密漏洩の原因の36.3%は退職者による漏洩であることが確認されています。
つまり、流出は単なる「裏切り」ではなく「構造的必然」だったのです。
3. POSCO事件発覚の経緯は?
POSCOの元社員が「中国企業へ技術開示した」裁判での証言が発端です。その裁判中、元社員は「その技術は新日鐵から得たものだ」と証言しました。
POSCOは2000年代初頭から品質を急速に高め、2004年には世界シェア20%へ到達します。
「短期間でここまでの品質向上は不自然だ」と新日鐵が疑念を抱いたのは2007年のことでした。
同年、POSCOの元社員が自社の営業秘密を中国の宝山鋼鉄(Baosteel)へ不正開示した事件の裁判中に、この証言が出ました。
これが事件の発端です。
2012年4月、新日鐵はPOSCOおよび日本法人POSCO JAPANを東京地裁に提訴しました。
請求は986億円の損害賠償と製造販売差止めです。
しかし訴訟提起時、両社は依然として技術提携関係(2000年締結)にありました。国際的協力の裏でスパイ行為があったという構図が浮かび上がったのです。
2015年9月、POSCOが300億円を支払う形で和解しました。
日本側は「所期の目的を一定程度達した」と発表します。しかし、実際には営業秘密侵害を立証し切れませんでした。
理由は三つあります。
①日本法では秘密管理の立証責任が被害者側にあること。
②退職者経由で国外持出しされた情報の証拠収集が不可能に近いこと。
③訴訟の長期化によりPOSCOが商業的に先行してしまったこと、です。
この和解は、日本の営業秘密訴訟の難しさを象徴しています。特に「秘密管理性」の立証は企業にとって非常に高いハードルです。単に「秘密だ」と主張するだけでなく、アクセス制限や秘密指定(マル秘マーク)などの具体的な管理措置を平時から行っていた証拠が求められます。
4. 元従業員個人への訴訟はどうなったか?
元従業員個人の責任が認められ、約10億円の賠償命令が確定しました。技術情報提供の対価として報酬3,000万円を受け取っていた事実が認定されました。
企業間訴訟の後も、新日鐵は元従業員個人への追及を継続しました。
2019年の東京地裁判決は、元社員がPOSCOに技術情報を提供し報酬3,000万円を受領していた事実を認定します。
「図利加害目的による営業秘密開示」として10億2300万円の損害賠償命令を下しました。
この判決は知財高裁でも維持され、確定しました。
この判決は「営業秘密の金銭的価値を可視化した初の大型民事判決」として注目を集めました。
5. 技術はさらに流出したのか?
はい、POSCO経由で中国の宝山鋼鉄(Baosteel)へ二次流出しました。Baosteelは国有資本のもとで急成長し、世界市場の価格を主導する立場になりました。
POSCO経由で流出した技術は、さらに中国・宝山鋼鉄に渡ったと見られています。
Baosteelは中国最大の鉄鋼企業です。
2000年代後半以降、中国は電磁鋼板の生産能力を急拡大させました。
日本製鉄はBaosteelが自社技術を不正利用していると認識していましたが、当時中国で該当特許を出願していなかったため訴訟ができませんでした。
6. なぜ国内でトヨタも提訴されたのか?(2021年)
トヨタがBaosteel製の侵害鋼板を電動車モーターに使用したことが争点となったためです。これは技術の「源流管理」を問う、新型の訴訟でした。
2021年10月、日本製鉄は「無方向性電磁鋼板」の特許侵害を理由に、トヨタ自動車とBaosteelを東京地裁に提訴しました。
損害賠償は両社それぞれ200億円です。
トヨタがBaosteel製鋼板を三井物産経由で輸入し、電動車のモーター製造に使用していたことが問われました。
同年12月には三井物産も提訴対象に追加されます。
日本製鉄は同時にトヨタ製車両の製造・販売差止仮処分も申し立てました。
この訴訟は、製造技術の“源流管理”をめぐる係争として注目されました。2023年11月2日のリリースで、トヨタおよび三井物産に対する訴訟を請求放棄により終了したと日本製鉄が公表しています。
7. 中国国内での訴訟(2024年)はどうなったか?
日本製鉄の特許が無効と判断されました。中韓連合勢が、特許出願日より前に市場に出ていた製品(フィアット500)を解体・分析し、「公然実施」されていたことを立証したためです。
2024年7月3日、中国国家知識産権局(CNIPA)は、日本製鉄の自動車用高強度鋼板特許(ZL201280016850.X)を新規性・進歩性欠如を理由に無効と判断しました。
無効申立を行ったのは、Baosteel・POSCOなど中韓連合勢でした。
注目すべきは証拠の方法論です。
申立人はイタリアで購入した2009年式フィアット500を解体し、公証人立会のもとで部品解析を実施しました。
この部品は、日本製鉄特許の技術構成と一致しました。さらに、特許優先日(2011年)以前に「公然実施」されていたと認定されました。
この手法は「証拠チェーンの国際モデルケース」とされ、以後の審査基準を変えるほどの影響を与えたと言われます。
8. なぜ日本は構造的に敗北したのか?
この一連の事件は、単なる企業間紛争ではありません。日本の「知的インフラの脆弱性」を露呈しました。
8-1. 法的遅延構造
日本では営業秘密の保護・捜査権限が限定的です。
8-2. 制度的防御不足
中国は国家安全概念を経済領域に拡大しています。【反スパイ法】や【データ安全法】により、技術の囲い込みを制度化しています。
8-3. 経営の認識不足
多くの日本企業が「技術は研究部門の財産」と誤認していました。法務・知財・経営の統合戦略を欠いていたのです。
結果として、日本の技術は「法では守れず」「スピードでも負け」「制度でも包囲される」三重の敗北を喫しました。
9. 今後の技術防衛策は?
技術流出の防止は、法務部門だけの仕事ではありません。経営のガバナンス課題です。
対応の柱は次の4つです。
9-1. 報酬制度の再設計
中核技術者にRSU(譲渡制限付株式)・PSU(業績連動型株式)を付与し、技術価値と企業価値を一致させます。
9-2. 秘密管理の実務化
秘密管理を形式的なものから実務的なものへ移行させます。退職者・委託先・海外子会社を含めたアクセス制御と監査が必要です。
9-3. 国際証拠戦略
研究ノート・試験データ・設計履歴を公証付きで証拠化します。常に海外訴訟の可能性を見越しておくことが重要です。
9-4. 国家的経済スパイ防止法の制定
国外犯の処罰と、企業による通報制度の整備が求められます。
