アジャイル開発における受注者の裁判リスクと実務上の備え1
2025.09.15
1.初めに:日本におけるアジャイル開発の法的状況
アジャイル開発は、その柔軟性から日本でも広く採用されています。従来のウォーターフォール開発とは異なり、反復的なアプローチが特徴です。開発の初期段階で、詳細な仕様を固定しません。
この特性は、ベンダー(受注者)には大きなメリットがあります。顧客ニーズへ柔軟に対応でき、開発も迅速に進みます。しかし、法的な観点では新たな課題やリスクも生じます。
本記事では、アジャイル開発で受注者が直面する裁判リスクを分析します。そして、リスクを減らすための実務的な備えも解説します。
(1)ソフトウェア開発特有の難しさ
情報の非対称性が生むベンダー不利な状況
ソフトウェア開発には専門知識が不可欠です。そのため、裁判官やユーザーには内容が分かりにくいものです。ここに「情報の非対称性」が生まれます。
結果として、ベンダーに不利な状況が起こりがちです。たとえ契約書がベンダー優位でも、裁判官はユーザー側に立つことがあります。情報格差を理由に、ベンダーへ厳しい判断を下すのです。
裁判官の中には、開発を一般的な工事と同じように考える人もいます。ユーザーとの対話なしに完成できると誤解しているのです。しかし、アジャイル開発は工事とは全く異なります。アジャイルという言葉は広がりましたが、正しく理解されているかは疑問です。
ウォーターフォールとの本質的な違い
ソフトウェア開発は、標準化された工事とは違います。常にカスタマイズが伴います。そのため、一度決めた要件定義の変更は大変です。変更には大きな手戻りが発生し、後戻りできません。
しかし、ユーザーは最初から仕様を固めたがりません。「具体的なイメージが湧かない」というのが主な理由です。ウォーターフォール開発では、このような手戻りは許されません。
アジャイルなら手戻りがないと考えるのは間違いです。実際には手戻りもあり得ます。アジャイルは、開発を小さく繰り返すことで、手戻りのリスクを最小化する仕組みなのです。
ベンダーとユーザー双方に求められる姿勢
アジャイル開発は、紛争が起きやすい構造をしています。プロジェクト開始後、ユーザーから大量の資料が出てくることも珍しくありません。そのため、優しく几帳面なユーザーとでなければ、紛争は避けられないでしょう。
プロジェクトは短期契約を更新していく形が一般的です。これは、ユーザーがベンダーとの相性を見極めるためでもあります。ベンダーは、作業内容の記録を徹底すべきです。何をやり、何をやったのか。記録は、報酬を確実に受け取るためにも重要です。
ユーザーは「何かを完成させたい」と期待しています。ベンダーはその期待を理解し、適切に管理せねばなりません。プロジェクトマネジメントを通じて、期待値をコントロールすることが求められます。アジャイルは準委任契約が基本ですが、免責ではありません。重い善管注意義務が課されることを忘れてはいけません。
(2)法的責任
ソフトウェア開発の契約類型は、法的責任に大きく影響します。アジャイルとウォーターフォールでは、適した契約類型が異なります。
① 請負契約
請負契約は「仕事の完成」を約束する契約です。受注者は、決められた仕様の成果物を期日までに納品する義務を負います。もし成果物に不備があれば、契約不適合責任を問われます。
この契約は、ウォーターフォール開発と親和性が高いです。開発前に仕様が確定しているため、「仕事の完成」の定義が明確だからです。そのため、法的な争点も「仕様通りか否か」に絞られやすい傾向があります。
② 準委任契約
準委任契約は、特定の事務処理を委託する契約です。受注者は成果物の完成ではなく、業務を適切に行う義務を負います。これを「善管注意義務」と呼びます。
アジャイル開発は、準委任契約に近い性質を持つとされます。開発中に仕様が柔軟に変わるためです。情報処理推進機構(IPA)も、アジャイル開発には準委任契約が適切だとの見解を示しています。
(3)契約類型の法的影響
契約類型が請負か準委任かで、ベンダーの責任は大きく変わります。準委任契約の争点は、主に「善管注意義務違反」の有無です。専門家として、業務を誠実に遂行したかが問われます。
一方、請負契約では「成果物の完成」が義務です。納品物が契約内容と合わなければ、責任を追及されます。アジャイル開発で請負契約を結ぶと、リスクが高まります。仕様が変わり続けるため、納品物の適合性で争いやすいからです。準委任なら、最終的な完成責任は問われないと解釈されるのが一般的です。

善管注意義務は、過程の妥当性を問うものです。その基準は一律ではありません。例えばユーザーのITリテラシーが高い場合、ベンダーはユーザーの指示に従う側面が強くなります。逆にユーザーがITに詳しくない場合、裁判官は情報格差を考慮して、ベンダーに重い注意義務を課すことがあります。
3.受注者が直面する裁判リスク
まず知るべきは、ITに詳しい弁護士は少ないという事実です。訴訟を提起する側も、開発を理解せずに行うケースが見受けられます。弁護士費用も高額になりがちです。
したがって、最優先すべきは訴訟の回避です。まずは話し合いでの解決を目指しましょう。ただし、上場企業などは説明責任の観点から、訴訟を選ばざるを得ない場合もあります。
(1)リスク①:仕様変更の曖昧さに起因する履行範囲の争い
アジャイルでは、開発が進む中で仕様が変わることが前提です。しかし、当初の見積もりが曖昧だと、契約の履行範囲も不明確になります。これが紛争の火種となるのです。
仕様変更に起因する主な紛争パターン
- 当初の見積もり範囲を巡る争い:ユーザーが「追加仕様も当初の予算内のはずだ」と主張し、追加費用の支払いを拒むケースです。
- 納品物の評価を巡る争い:「成果物が期待レベルに達していない」として、無償での追加開発を要求されるリスクです。
- 成果責任の有無を巡る争い:準委任契約を理由に「完成責任はない」と主張しても、裁判所が一定の成果責任を認める可能性があります。「アジャイル=免責」ではないのです。
裁判では、開発中のやり取りが重視されます。議事録、メール、仕様書などが証拠になります。これらの記録から、作業過程の妥当性が判断されるのです。仕様変更の合意プロセスは、特に重要です。記録を明確に残すことが、自身を守る最大の武器となります。
(2)リスク②:情報提供義務違反とされる可能性
裁判所は、専門家であるベンダーに重い説明義務を課す傾向があります。アジャイル開発では、特に以下の点が争点になりやすいです。
ベンダーに求められる具体的な説明責任
- アジャイルの進め方を事前に説明したか:仕様は流動的です。そのため費用や期間が変動する可能性を、ユーザーに説明しておく必要があります。
- スプリントごとの成果を「受入済み」としたか:各スプリントの成果物について、ユーザーから明確な受入確認を得る仕組みが不可欠です。合意した証拠を残してください。
- ユーザーの誤解を放置しなかったか:ユーザーがプロセスを誤解していると感じたら、積極的に解消すべきです。放置すれば、ベンダーの責任と判断されるリスクがあります。
(3)リスク③:進捗管理・課題共有の怠慢による信頼喪失
アジャイル開発では「透明性」が重要です。しかし、以下のような状況では信頼が損なわれ、紛争につながる可能性があります。
- 完了報告が形骸化していないか:スプリント完了報告が形式的になると、ベンダーとユーザーの認識にズレが生じ、積み重なっていきます。
- 不具合や技術的制約の共有を怠らなかったか:開発中の不具合は、早期に共有すべきです。報告が遅れ、後半で重大化するとベンダーの責任が問われます。工数の把握が難しい理由も含め、早い段階で透明性をもって説明することが重要です。
- PO(プロダクトオーナー)の理解不足を放置しなかったか:ユーザー側のPOがアジャイルを理解していない場合、ベンダーはそれを放置してはいけません。誤解を助長したと見なされる可能性があります。安易に相手に合わせず、言うべきことは議事録に明記しましょう。
4.裁判になった場合に要求される資料
裁判で重要となる証拠資料
裁判では、契約書や仕様書だけでは不十分です。作業報告書やバックログ、ソースコードの分析が求められます。ベンダーが何をしたのか、裁判官に分かりやすく示す必要があります。
しかし、裁判官はITの専門家ではありません。「アジャイル」や「ソースコード」といった言葉すら知らないことも多いのです。
開発環境の資料保全とバックアップの重要性
一番の問題は、開発資料が何もないケースです。ユーザーのクラウド環境で開発し、手元に記録がない場合がこれにあたります。紛争に備え、作業記録は必ずバックアップしておきましょう。資料がなければ、裁判で非常に不利になります。
専門家(弁護士)との連携で紛争を有利に
証拠を揃えた上で、裁判官に分かりやすく報告書をまとめる必要があります。エンジニアは「このくらい分かるだろう」と弁護士に丸投げしがちです。しかし、その考えは非常に危険です。
開発の背景や経緯は、当事者しか分かりません。開発者同士の会話も、第三者には理解できないのが普通です。これは、外部の専門家でも同じです。
エンジニアは、弁護士に作業の妥当性を根気よく説明せねばなりません。裁判官は情報格差から、必ずしもエンジニアの味方とは限りません。常に紛争リスクを意識し、備えることが重要です。そして、早めにITに強い弁護士へ相談しましょう。裁判を回避できる可能性が高まります。